「LAZARUS」を見て考えた、“余白”ということ
最近、渡辺信一郎監督の新作アニメ『LAZARUS』を観た。
『カウボーイビバップ』や『サムライチャンプルー』で知られる彼の作品には、いつもどこか“間”がある。空気の流れや、無駄とも思える沈黙が、物語の余韻として残る。でも今回の『LAZARUS』は、それとはまるで違う感触だった。
目まぐるしく動くアクション、完璧に作り込まれた3DCG、息を呑むスピード感。情報量も演出もすごすぎて、まばたきする暇もない。
でも不思議と、どこか「空っぽな感覚」が残った。
ポジティブな意味で全体がスタイリッシュに構成されすぎていて、だからこそ“どこにも自分の居場所がない”ような感じがした。映像の完璧さが、人間らしさを遠ざけているような。
それは、ファッションでも似た感覚を持つことがある。
素材や縫製、構造を徹底的に突き詰めていくほど、「完璧な正解」に近づいていく。
でもその先には、“誰のためでもない服”ができあがってしまう気がして、ふと立ち止まる。
遊びのなさは、居心地の悪さにつながるように思ってて、
もちろん、いろんな服があって、完璧であることに重きを置いた素晴らしいブランドは世の中多い。
毎度見るたびに息を呑むような素晴らしい服達、、、
だけどMIDTHINGSではいつも、「余白」や「未完成の美しさ」みたいなものを考えている。
手刺繍の文字、いびつなビーズ、わざとムラのある縫い方。子どもが描いたような刺繍もそうだ。
それは「雑さ」ではなく、“誰かが手を加える余地”を残すということ。または誰かの手に渡った記憶のような錯覚を思い出させるもの。
LAZARUSを見て、あらためて思ったことは、
完璧であることと、人の感情に触れることは、必ずしも同じではない。
むしろ、すこし崩れていたり、意味が明確じゃなかったりするものの方が、見る人の中でゆっくり育つ気がする。
MIDTHINGSの服も、着た人の時間や記憶で、少しずつ輪郭が変わっていくようなものになっていたらいい。
だから今日も、どこかに“あいまいな余白”を仕込みながら服を作っています。。。
最近はLAZARUSの音楽が完璧すぎたのでSpotifyでよく聴いています。